6月26日
6月24日、
無事
オープンしました~!!
今年の夏期特別企画展「小笠原~ウミガメがつないだ、東京と秋田~」
はじまりました。
当日は、小笠原村観光局公式キャラクター・・・じゃなかった、
営業部長の
おがじろうも
来てくれましたよ!
豪太、新しい友達が出来ました。
おがじろうっていう名前なだけに
「男鹿の新しいゆるキャラかと思って・・・」という声多数。
違うんですよ~。。
今回の企画展では
売店にも
小笠原コーナーができました!
個人的おすすめ
島ラー油。
父島で、これで食べた冷奴が美味しくておいしくて・・・。
買っていこ!と思ったら
「売れ行きいいので、今社員はちょっと遠慮してください」って・・・。
そうなんです。小笠原に行くには貨客船「おがさわら丸」で
東京の竹芝から約24時間。小笠原の父島「二見港」につくわけですが
通常、おがさわら丸は二見港で3泊し、その後東京の竹芝に
24時間かけて向かうわけです。
ということは、
小笠原名物もその船じゃないと届かないわけで・・・
まあ、楽しみがちょっと後になったと思えばいいか。
小笠原の味をより多くの人が楽しめるようになった方がいいですからね。
とか大人の対応しててもやっぱりほしい島ラー油他。。
さて、今日は「オープンしました報告」だけではありません。
今日6月26日は、小笠原諸島が日本に返還された
「返還記念日」なんですよ。
返還ってどこから?と思われる方もいらっしゃるかも
しれませんが、小笠原は一時、アメリカの統治下にありました。
小笠原諸島が日本の領有になったのは1876年と伝えられています。
当時、島に暮らしていた人は欧米系の移民が多かったそうです。
日本の領有が決まると、それまでそこで暮らしていた欧米系の移民は
日本に帰化。それに加えて日本の本土や八丈島から人が移動し、
開拓が進められました。
自分が父島に行ったときに
沖縄みたいなとこかなと思っていたけど
全然違っていて
日本なんだかここどこなんだか不思議なとこだなーなんて
印象を受けたんですが
日本だけではない、欧米系の雰囲気も入っていたせいなんですね。
その後1939年に第二次世界大戦が開戦。
小笠原諸島も戦地となります。
硫黄島っていうと、映画にも取り上げられたので
聞いたことがあるという方も多いと思うのですが
硫黄島って、小笠原諸島なんですよ。
知ってました?!
という自分はもちろん知りませんでした。
出張時、
きれーな
うみ~。
なんて見ていましたが
この海を囲む木々の中には
戦争の跡が
未だ多く残されています。
上の写真の中の画像なんですが、ここは当時情報発信の場だったとか。
林の中を歩いていると
ぽっかり
開いた穴が出てきたりして、中は
敵を狙うための・・・
ちなみに、向こう側は海です。
小笠原諸島には
こうした
壕の跡が、いくつも残されています。
上の写真は父島にある戦跡なんですが
母島ではまた別の戦跡を見せてもらいました。
鬱蒼とした林に
突如
砲台が・・・
正直これ見たとき「うそでしょ」って思っちゃいましたよ。
映画のセットか何かが取り残されたのって。
そうではありません。
実際、太平洋戦争で使われたものなんです。
1944年には父島も空襲にあい
当時小笠原諸島で生活していた人たちに「強制疎開」の命令が下ります。
1945年には激戦地である硫黄島の日本軍が全滅。
その後終戦を迎え、結果小笠原諸島はアメリカの統治下に置かれます。
強制疎開で本土に渡っていた人たちがすぐにもといた生活の土地に
戻れたのかというと、そうではなかったようです。
すぐに戻れたのは欧米系の島民だけ。
全島民が戻れたのはなんとそれから23年後だったそうです。
それが、1968年の6月26日。
小笠原諸島が、日本に戻った日です。
「小笠原村」の村政がスタートしたのは1979年、昭和でいうと
54年。
・・・昭和54年?!
自分とそんなに変わらないじゃん(昭和50年代生まれ)!!
ということは、
小笠原諸島に戻ったその日を
知っている人がいるということです。
教室で歴史の教科書を読んで
テストに受かるために
日本の戦争を知るよりも
ここには、目の前で知り、
雰囲気を感じて
考えることができる歴史がありました。
秋田では1945年8月14日から15日にかけて
「土崎空襲」、アメリカ軍による第二次世界大戦末期の
大規模空襲がありました。
8月15日が終戦記念日ですから・・・
本当に、終わる直前の空襲だったんですね。
今では土崎はふつうの町で、どちらかというと
発展している町で
人もたくさんいて
そんなこと微塵も感じませんが
空襲の際、爆弾の破片で首が飛ばされてしまった
「首無し地蔵」が、戦争の跡を物語る史跡として残されて
いるそうです。
機会があれば、行ってみます。
自分の祖父も第二次世界大戦で飛行機乗りでした。
しかし戦争中の話はほとんど教えてくれず
自分はもっと聞きたいと思って
いろいろ聞いてみましたが
最後ぽつっといった言葉が
「自分だけ生き残って・・・恥ずかしい」でした。
そのときは確か、
もう時間も経っているんだし
もっと話してくれてもいいのにと思いましたが
おそらく、本当に
口にするにもできない出来事なんだなと
今回、戦跡を目の前にしたときに思いました。
当時の6月26日を知る方の話を聞くことができたら・・・
そう思います。
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